オタクメモ(2017.08.27)

 ものを書くことは、つねに既知の最先端で行われる。すなわち、いま知っていることと、まだ知らないことのあいだで。ひとがものを書く以上、この間隙を飛び越えなくてはならない。*1 だからこそ、書くことは連続ではなくひとつの断絶であり、書き始めることはある種の存在論的変身である。

 この跳躍を嫌って、これからゆく道すべてを理解しようとしても無駄である。未知を既知に引込みつづけても、その彼方に新たな未知が召喚されるだけだ。*2

 書くうえでは、ここにボールがある。これを持って走れ! という金言のほかには、なにも訳に立たない。もちろん、一回のトライのためには万全の準備が必要であるけれど。*3

ミルチャ・エリアーデ『悪魔と両性具有 エリアーデ著作集6』

 すべての超自然的な光の体験には共通分母が存在する。つまり、このような体験をしたものは誰でも、存在論的な変化を被るのである。

 稲妻に打たれて死んだひとは、雷神によって展開へ奪い去られたものと考えられ、彼らの以外は聖遺骨として崇められる。落雷にあって無事であったひとは、完全に変化を被る。事実、彼は新たな存在をはじめ、新しい人間となるのである。

 超自然的な光の体験

a)それは長い準備の結果であるが、いつも突然〈稲妻〉のように起きる。 b)それは内的な光にかかわっており、身体全体で感じられるが、とりわけ頭の内部で感じられる。 c)最初にそれを体験する時、それは上昇体験を伴っている。 d)かなたを見通す千里眼と透視力とが同時に問題となっている。

→ピンときたり、ビビっときたことをしめす漫画的表現との類似

稀見理都『エロマンガ表現史』

 インドにおける「光」の形而上学

a)神性の最も充溢した顕われは「光」によって実現される。 b)高度の精神性に到達したものは誰でも「光」を発することができる。 c)宇宙開闢論は視覚上の顕現と同等のものである

死者の運命を決定するのはいつも死者自身なのだ

インド的思考においては、神秘的に知覚された「光」は、この世界、俗なる条件づけられた世界の超越をあらわす徴候、そして存在の別のレヴェルへの到達をあらわす徴候である。

・稀見理都「女流エロマンガ家に夢を追う!」(http://ero.manga-studies.com/?p=article&bid=11#continue

エロマンガの読者は伝統的に「テクスト論的」な立場でストーリーを解釈してきたジャンルではないでしょうか? (中略)しかし、作者が女性というファクターが加わると、この「テクスト的読み方」が一気に変貌するのが面白いところです。(ただし、読者が男性という想定)

このファクターによって、読者のエロマンガを読むときの「妄想」に新たなストーリーが加えられるわけです。

a)こんなエロいマンガを描く女性はやっぱりエロいのかな? b)実体験がやはりネタになっているのかな? c)エロい話を描くときって、やっぱりオ○ニーとかしてるのかな?

という、一種の作品上で語られていない、もう一つのドリームが構成されるのです。

読んだやつ

ミルチャ・エリアーデ『悪魔と両性具有 エリアーデ著作集6』

読んでいるやつ

『幻影の手術室:天久鷹央の事件カルテ』

給料が入ったら買うやつ

結月ゆかり(感情入り) 紺野あずれ『こえでおしごと!』 花見沢Q太郎『REC』 渡部ペコ『キナコタイフーン』

*1:ゲーテも、友人のエッカーマンに「われわれが創造的にすることは矛盾にほかならない」といっている。

*2:うっかりダジャレ

*3:デヴィット・ハーヴェイによる「ここがロドスだ、ここで跳べ」の大学生ヴァージョン