アニメーションのデッド感

ゾンビは、実に様々な歩き方をする。死後硬直を示すため、足を引き摺りながら手をだらりと垂らして歩くゾンビ。筋肉が腐りきって、酔っ払いの千鳥足のように左右に振れるゾンビ。中には歩くだけでは飽き足らず、獲物にむかって走り出すゾンビもいる。しかし、こうした様々なゾンビが、同じゾンビとして認識できるのはなぜだろうか。どうして、それが生きているのではなく、「死んでいる」とわかるのだろう。

多種多様なゾンビを貫くこの「デッド感」は、一体何に由来するのだろうか。そのために、まず人間の歩行とゾンビの歩行を比較して考えるところからはじめたい。

人間の歩行を連続写真で見ると、骨盤のあたりにある重心が緩やかな波状の曲線でもって上下していることが確認できる。それはちょうど逆立ちした振子の動きに擬せることが可能だろう。一般的に倒立振子モデルで理解される人間の歩行は、力学的には、位置エネルギーと運動エネルギーとの変換にロスがない効率的な動きであり、心理的には、次の運動が事前の運動の中で潜在的に予告された容易な動きである。

一方で、ゾンビの歩行を見ると、いたるところがぎこちなく動いていることが分かるだろう。同じ身体のうちに、直線的な移行と過度に曲線的な揺れが混ざり合って存在しているのだ。ゾンビの歩き方は、力学的には不合理な動きであり、心理的には、予測がつかない不安な動きとなる。

ゾンビの「デッド感」とは、人体の滑らかな動きと屈伸性があってほしいところに、機械的なこわばりや過度の柔軟性があることに存する。人体の一部が過剰に硬直していたり、あまりに簡単に動いたりするときに、ひとはここに生気がないこと、もう既に死んでいることを直感するのだ。この理屈は、決してゾンビにだけ当てはまるものではなく、人形やエイリアンなど、ホラー・モティーフのほとんどに見ることが出来る。

転じて、アニメーションについて考えれば、元々動かない絵に生気(anima)を吹き込む営みである以上、こうした「デッド感」とは切っても切れない関係にある。勿論、生気溢れるアニメーションが優れていることに異論はないが、こうした「デッド感」を享受するのも、アニメを見る一つの楽しみ方ではないだろうか。

例えば、『ロザリオとバンパイア』OPアニメーションを見ると、モーションキャプチャによって生まれた曲線的な運動と能面のように筋硬直したアニメ的な顔とが混ざり合い、強い「デッド感」を醸している。

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また、『らき☆すた』OPのダンスシークエンスも、実写ベースの踊りにアニメ的な後ヅメを加えることで、リアルな動きにも拘わらず、まるでマリオネットを見ているような感覚に襲われる。

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もうかなり眠いのでここで擱筆としますが、こういうアニメーションの「デッド感」が大好きなんで、みんなもなんか思いついたら教えてください。

『君の名は。』の時間表象について

  1. 『君の名は』('53年)について
  2. 『君の名は』('53年)における時間表象
  3. 新海作品について
  4. 新海作品における時間表象
  5. 君の名は。』('16年)における時間表象

 『君の名は。』を観てきました。よかった、非常によかったです。生来、ひどく出無精なため、滅多なことでは映画館まで足を運ぶことはないのですが、見終わったとき、来てよかった、見逃さなくてよかった。と安堵するぐらいにはいい作品でした。思わず普段は買わないパンフレットまで買ってしまいました。まわりは夏休み中の小中学生やカップルばかりで、若干の居心地の悪さを感じずにはいられませんでしたが、それでも映画館まで見にいく価値はある作品だったと思います。

 『君の名は。』というタイトルが、戦後ラジオドラマとして人気を博し、のちに大庭秀雄によって映画化された『君の名は』(1953-4年)のパロディであることは方々で指摘されている通りですが、実際にこの二つの作品を比較した文章はまだ出てきていないようです。たしかに東京大空襲で偶然出会った男女の悲恋を描いた『君の名は』と、男女の入れ替わりというポップで漫画的な発想から生まれた『君の名は。』の間には、タイトルと男女のすれ違いというテーマの他に共通するものはなく、オマージュを感じるカットもありませんでした。しかし、強いてこの二つの悲恋を擦り合わせて考えてみましょう。私が気になったのは、この二つの作品における時間イメージの違いです。

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1.『君の名は』('53年)について

 戦後GHQは、ファシズム的価値観の除去という方針のもと、軍国主義や封建主義を肯定的に扱った作品の制作・上映を厳しく制限する一方、戦前はご法度だったキスシーンを認めるなど恋愛描写については比較的緩やかなコードを設けました。49年のヒット作『青い山脈』や本項で扱う『君の名は』三部作は、そうした解放的な雰囲気の中で作られたメロドラマです。

 ピーター・ブルックスによれば、メロドラマとは「いかなる場合も根本的に民主的であり、その表現をあらゆる人々にわかりやすく示そうとする」物語であり、「聖なるものが喪われた時代に、本質的道徳を提示し、機能させるための主要なモード」であるそうです。*1天皇」という聖性が喪われた日本において、誰にでも、誰とでも可能なものとして提示された自由恋愛は、戦後民主主義の最も偉大な教師であり、実践者でありつづけてきました。逆にいえば、そうした自由恋愛に対する不信は、すなわち民主主義に対する不信に繋がりかねません。保守やネトウヨが、非モテのレッテルを貼られたり、好んで自称してみたりというのは、ネットではおなじみの光景でしょう。

 話が少し逸れましたが、ざっと『君の名は』のあらすじを確認していきましょう。自分でまとめるのは面倒なので、佐藤忠男『日本映画300』(朝日出版)からの一部引用です。

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東京大空襲の中で偶然知り合い、一緒に逃げまわって助かった後宮春樹と氏家真知子というカップルが、同じ場所での再会を約束して別れる。そして一年半後、二人は約束した数寄屋橋で再会するが、そのときもう、真知子は他の男と婚約してしまっていた。二人は別れるが、互いに相手を思う心はつのるばかり。真知子は姑とも夫ともうまくゆかず、嫁いだ家を出るが、夫は離婚を承知しない。春樹と真知子は出会っては別れ、また出会っては別れざるを得ない。

 といった具合で、いわばすれ違い恋愛ものの元祖ともいうべき作品です。感傷的ですが俗悪ではなく、ひとつひとつのカットにも一種の品の良さがあります。

2.『君の名は』('53年)における時間表象

 この大庭秀雄監督の『君の名は』では、時間は「水の流れ」として表現されています。たとえば、本作冒頭のシークエンスは、岸惠子扮する真知子が、航跡の流れるかたを眺めやっているところから始まりますが、ここでは船が向かう先である佐渡が未来となり、後ろの本州が過去となって流れていく。そして二つに挟まれるようにして甲板上の真知子がいる。水の流れはそのまま時間の流れにすり替えられ、後ろばかり見ている真知子は文字通り「過去に未練がある」のです。そして、その流れを遡行していけば、二人が出会った数寄屋橋の下の江戸城外濠の緩やかな流れを見出すことになるでしょう。『君の名は』における時間は、数寄屋橋のシークエンスを源流として、単線的で不可逆な流れとして二人の仲を押し流し、引き裂いていくことになります。

3.新海作品について

 1914年、アメリカ人のアール・ハードが、透明なセル画にキャラクターを描き、それを風景画の上に乗せるという「セル技法」の基礎を築いてから、アニメーション作品では前方主体のキャラクターと、後方客体の風景を切り離して扱うという二元論的な画面構成が定着しました。日本においては、膨大に嵩んだ製作費をキャラクターの商品化によって補填するという商業慣習が一般化しています。その結果、アニメーションはキャラクターありきの表象空間となる傾向にあり、その中で風景が抜け落ちてしまったり、補助的な役割しか与えられないということが多々あります。特に、放送自体では直接的には利益があがらず、メディアミックスなどによって投資回収をおこなう深夜アニメでは、その傾向が一層強くなります。

 そうしたキャラクター中心的なアニメーション作品が主流な中で、新海誠の作品は風景そのものを主題化して描いたという意味において画期的でした。勿論、彼が強く意識している宮崎駿もまた、風景をその作品の中心に取り込んだクリエイターでした*2が、宮崎作品における風景は、文明に対するエコ・クリティシズムとしての側面が強く、風景そのものが主題化されているとはいいがたいものでした。そうした意味において、新海誠の風景の中で登場人物が脱中心化された画面構成は、そのセカイ系的な物語と同様にひとつの事件だったのです。それは、キャラクター・作画重視のアニメーションに対する明確なアンチテーゼでした。*3

4.新海作品における時間表象

 新海誠の風景を語るうえで、伸びやかに広がる白雲とその変奏のモティーフを欠かすことは出来ません。『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』といった作品は言うまでもなく、『秒速5センチメートル』における散る桜、降る雪、砕ける波と続くイメージの連鎖に至るまで、そこには通底して流れる「雲」のイメージが存在しています。流され、千切れ、纏まり、伸び広がる「雲」の姿。これは新海作品において、最も鮮明な運動イメージの一つです。

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 「雲」は同じ場所にとどまるということがありません。投錨することも、繋留されることもなく、常に形を変えて動きつづけています。そうした意味で、雲とは無常の表象でもあります。自然界のすべてのものは、時間という絶対の器の中で、たえず変化しつづけているのであり、人間もまたその例外ではないのです。恋愛は、形になると同時に毀れていき、ついには失われてしまう。「雲」は、物事の儚さや泡沫性をしめす視覚イメージとして、新海作品を包んでいます。

 こうした「雲」と対概念になるのが、ロケットの「噴射雲」です。『ほしのこえ』でヒロインが乗り込むリシテア艦隊の「噴射雲」、『秒速5センチメートル』において、種子島宇宙センターから発射される深宇宙探査機「ELISH(エリシュ)」の「噴射雲」。カオスで受動的に流れる「雲」に対して、まっすぐと能動的に進むロケットの姿は、たえざる変化に晒されながらも、それでも抵抗しようとする人間の「意志」の表象ということができるでしょう。だが、宇宙を進むロケットが孤独であるのと同じように、人間の「孤独」をしめすイメージでもあります。『ほしのこえ』において、人類滅亡という運命に抗うべく組織されたリシテア艦隊が、結果として長峰美加子と寺尾昇のあいだを引き裂いてしまうように。こうした「意志」と「孤独」のジレンマもまた、新海作品に頻出するモティーフです。

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5.『君の名は。』('16)における時間表象

 最新作『君の名は。』においても、この「雲」の表象は健在です。冒頭、RADWINPSの主題歌が流れるシーンでも、目まぐるしい雲の動きが時間の経過をあらわす視覚イメージとして使われています。また、終盤のシークエンスで、瀧と三葉が初めて出会う場面でも、一面に下界を覆う雲を描くことによって、この場面が時間が止まったところ、すなわち日常的な時間世界の外で展開していることをあらわしています。そして、片割れ時が終わると同時に、下界の雲が動き出し、二人のあいだは分かたれてしまう。こうした「雲」の使い方は、今までの新海作品でおなじみのものといえるでしょう。

 ですが、本作で初めて現れた視覚イメージもあります。それは「彗星」と「糸」という時間表象です。

 「彗星」は、「噴射雲」の変奏でありながらも、一回性を帯びた不可逆な「噴射雲」とは異なり、ティアマト彗星が1200年の時を経て再び現れてくるように、出会いがまた新しいものとして「反復」すること、つまり瀧と三葉が再び出会う可能性を示唆しています。*4

 「糸」もまた、単線的な時間イメージに対して、離れた糸を再び「結ぶ」こと、離れ離れになった男女が再び出会うことへの可能性を開いています。宮水神社の御神体が、「むすび」の神であり、それが「時間」の神であることは劇中で説明されている通りです。

 『君の名は。』では、この「彗星」と「糸」という時間イメージを導入することで、「雲」と「噴射雲」という単線的で不可逆な時間系を脱し、反復する可能性を留保した時間系へと移行することを可能にしました。それは『秒速5センチメートル』のラストを塗り替えるために新海誠が用意した巧妙な仕掛けということが出来るのではないでしょうか。

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*1:ピーター・ブルックス『メロドラマ的想像力』(2002年、四方田犬彦他訳、産業出版)

*2:新海誠におけるジブリ作品の影響については、たとえば次のようなインタビューがある 

星を追う子どもは、ジブリに影響を受けたか? - 新海誠インタビュー【あにこれβ】

*3:新海誠の背景力についてはヤマカンの公式ブログを参照のこと

山本寛 公式ブログ - 君の名は。 - Powered by LINE

*4:蛇足かも知れないが、『反復』の哲学者セーレン・キルケゴールが、論敵から「彗星」と綽名されていたことを思い出してもよいかも知れない。